ミステリ論争

郷原宏『日本推理小説論争史』を読み始める。「匿名座談会論争」が面白くって仕方ない。これは、あの「このミス」が面白かった頃の、面白かった理由の一つだった匿名座談会が、笠井潔と揉めた時の話で、リアルタイムで読んでいた私は、何とも言えない懐かしさを感じるのだ。この論争に関しては、笠井潔キチガイだという以外の結論は導き出せないなぁというのが私の感想で、実際、ここまで品性下劣な人間がいるものかと思わせる新左翼崩れの醜態は見事の一言なのである。「衛生観念もない、虫けら同然の、たかがじじいの浮浪者が、よくもこのディオにそんな無礼な口がきけたものだ」って名セリフがプリティに思えるほどの罵詈雑言が炸裂。「ろくな著書もないチンピラライター風情が」ってな勢いで偉そうに言いまくるが、「てめぇなんぞ、昔の名前で出ていますロートルじゃねぇか」と、誰もかれもが突っ込みたくなる展開。この論争(と言うか罵り合い)の唯一の建設的な成果は、私が千街晶之に注目するきっかけになったということだった。

しかし、この本には不満もあって、何故、近年稀に見る大騒ぎになった「容疑者X論争」に一章を割かなかったのか。あれって「本格とは何か」という大命題に関わる論争だったはずなのに。あの論争に関しては、言い出しっぺの二階堂黎人の肩を持つわけじゃないが、「なぜ、評論家は『本格』の定義ができないのか」という疑問が、どうしても拭えない。いや、心の中では定義しているのかも知れないのだが、だったら「私は、あなた(二階堂黎人)と違って、こういうふうに思ってます」と言えば済む話じゃないか。言っちゃいけない理由でもあるのか。

もともと私には探偵小説研究会に対する不信があって、と言うのは、あの団体が笠井潔一派だったという生理的嫌悪とは別の次元で、ミステリのうち本格作品に絞った『本格ミステリ・ベスト10』というのを出しておきながら、本格の定義は会員個々人によって違うなどと言う神経が理解できないのだ。「本格の定義は個々人によって違う」のは構わないのだが、会の名前でベスト作品を選出している以上、そこには会としての共通の物差し(会員の本格観の最大公約数、少なくとも、ベスト選出において適用した本格観)がなきゃダメだろう。「個々人によって違う」のを貫くなら、集計なんかせずに、「会員A:本格の定義、その定義によるベスト10」という具合に、会員全員の本格観を列挙すべきではないのか。

まぁ、そりゃ、年に一度のお祭りだし、みんなで選べば集計したくなるのが人情だし、そうしなきゃ本も売れないし、ってのも分かるんで、『本格ミステリ・ベスト10』については、そんなに追い詰める気なんかないんだが、でも、「容疑者X論争」で、二階堂に「お前らの本格観って奴を示せよ」と言われたら、思いっきり示してやればいいじゃないか。でも、二階堂に反論した人のほとんどは、明確な定義を示さなかった。「なんとなく、そんな感じ」みたいなものはマシな方で、「定義することに意味がない」とか言い出す人もいたりして、そうなると何を考えてるんだかサッパリ分からない。どいつもこいつも顧みて他を言う状態。て言うか、そんな人には、この論争に参加する資格はないと思うのだが。

「なんとなく、そんな感じ、くらいしか言いようがねぇじゃねぇか」というのも分からんじゃないが、そこを何とかして文章にするのが、評論家って商売じゃないのか、ただの「読書が趣味の人」じゃねぇんだから。と私は思うんだが、どんなもんなのだろうか。