さようなら,僕の好きだった推理小説

探偵小説研究会編『本格ミステリ・ディケイド300』を読んだ。「ゼロ年代(2001-2010年)の本格ミステリ・シーンを300タイトルに及ぶ書評によって紹介。さらに映像やコミック,ゲームなど周辺関連情報も網羅した読書案内」だ。2002年に出た『本格ミステリ・クロニクル300』(1987年以降の日本の本格ミステリ15年史を概観するブックガイド)の続編である。
いわゆるベスト本やなくてガイド本やし(あんまり違いはない気もするけど),いろんな人にいろんな情報を,ということではあるんやろうけど,それにしたって,このカオスっぷりは何事か。対象が「本格ミステリ」なんて一言で括れるようなレベルをはるかに超えてて,一体どこからどこまでがミステリ・シーンやねん,って感じ。この手の本は,読者を絞り込んで作られるものだと思うんやけど,絞ってこれなら,とてもじゃないけれど,私にはガイド本として活用することは無理でございます。『本格ミステリ・クロニクル300』の終盤あたりで,既にその兆しはあったんやけど,私が,読者としては前世紀の遺物やということなんやろうねぇ。
都築道夫の「個体発展は系統発展を真似る」というような至言もあるように,ミステリには,ある程度の歴史を踏まえて,ある程度それをなぞって親しんでいく(で,うるさい先輩が後輩を教え導く)という構図があって,これはジャズと非常によく似ていると思う(『Yの悲劇』は『サキコロ』みたいな)んやけど,ジャズが,ある一定の段階で「こんなもんジャズじゃない」という保守的な声が大きくて,フュージョンやのなんやのと棲み分けしたのに対し,ミステリは「これも本格」と広い心で受け入れてるのか,エンタテインメントとほぼ同義というところにまで膨らんでる気がして,この膨大な情報量の中では,歴史を先達が教え導くなんて絶対無理やしナンセンス。
どっちが良くてどっちが悪いということではないんやけど,綾辻行人が『十角館の殺人』で書いたように「"社会派"式のリアリズム云々は,もうまっぴら」と思いながら乱歩や横溝やクイーンなんかの古典を読み,「時代遅れと云われようが何だろうがやっぱりね,名探偵,大邸宅,怪しげな住人たち,血みどろの惨劇,不可能犯罪,破天荒な大トリック」を引っ提げて登場した島田荘司の出現を喜んだ世代としては,一抹の淋しさも感じる。時代背景やらなんやらは全然違うけど,感覚としては「昔懐かしいのが読みたいなぁ」と思ってた学生時代と同じ「物足りなさ」「飢餓感」がある。
さっきも書いたとおり,これは私が時代遅れになったということであって,現代の現役の読者にしてみれば「ロートルはすっこんでな」の一言で済む話なんやけど,ガイド本を読んで「さようなら,僕の好きだった推理小説」って感じるなんて,皮肉な話やなぁとしみじみ感じちゃったわけです。